生きる希望を考え、死を想う

(昨日の大蔵先生の講演に触発されて書く。一部内容拝借)

希望、とは何か考える。
ここでいう「希望」とは「生きる希望」である。

人間誰しも70~80歳にもなれば、体は衰えてくる。
これは「病気」ではない。
この「衰え」も病院で治せる、入院したら良くなる、と思われている節もあるが、実際には良くなるどころか悪化する例だってある。

がん、認知症、心不全、脳血管疾患など誰しもが加齢に伴う病となり、皆が等しく死を迎える。
もちろん、様々な技術の進歩により、死までの時間を延ばすことは可能になったし、これからもそうなっていく可能性はある。
平均寿命が150歳、なんて世の中ももしかしたらいずれはあるかもしれない。
そういう意味では「夢の新薬」や「夢のような技術」は生きることの「希望」だろう。

しかし、現在80歳前後の寿命が、150歳に延びることは、本当に希望ある世の中なのか。
もしそうなっても、130歳くらいになれば「ああ、あと20年くらいしか生きられない」と思うのではないだろうか。
仮に、がんの特効薬ができて、がんが撲滅されても、他の病気で私達は死んでいく。
私達が人間である限り。

もちろん、現在がんで苦しんでいる方には、がんの特効薬ができることは「希望」だろうが、「治る」ことだけが希望なのだとしたら、その先にはやっぱり絶望しかないんじゃないだろうか。

これは残酷なことかもしれないけど、大切なことだ。
私だっていずれは何かの、死に至る病になる。
一時は、手術や薬で命が延びるかもしれない。でもまた数年後には死に至る病になるだろう。それをまた治しても、また同じことの繰り返しだ。
だとしたら、人間が生きることの希望はどこにあるのだろう。

それに一定の答えを出しているのが、種々の宗教であるのだろうが、私は死後の世界というものは、ある、とか、ない、とかはあまり興味が無く、あってもいいけど、とりあえずこの世の中のことは、この世の中でケリをつけたいと思っている。
そう考えれば、自分に残された時間は、あと長くても50年ちょっとくらいだろう。
もう既に1/3は過ぎている。
だから、時間が足りないかもしれないと思っている。
何のための時間か。
自分の中で言うと「ああびっくりした」と世の中に思わせるための時間と、「ああ安心した」と世の中に思ってもらうための時間である。
「ああびっくりした」は、端的に言えば世の中を楽しませるあらゆること。それをたくさん生み出すことが自分の喜びであり、生きる希望である。
「ああ安心した」は、自分が安心して死ねるためのあらゆること。死ぬまでにそれを準備することが、生きる希望である。
死ぬことは仕方がない。じゃあ、死ぬまでにたくさん楽しいことをやって、世の中を楽しませて、そして安心して、(できれば上手に)死にたい。それが希望、かな。

一般的な希望、そんなものはきっと無いんだと想う。
でも、死から逆算して考えたとき、それぞれが、その中に見えてくるものがあるかもしれない。
それを生み出す手助けをするのも、これからの自分たちの仕事かと思っている。

今の社会は、死から隔絶されすぎている。
昔は、自分の祖父母、父母だけでなく、多くの親類縁者の死を、その過程も含めて経験することができた。今はそれがない。
「死を想え」と、有名な言葉があっても、死が想像できない。遠い彼方のものか、恐くて忌避するもの。何か高尚なものにしたがる傾向も世の中にあるが、それは誰の身にも起こる、現実である。
死や老いを、もっと近しいものに取り戻す必要があるのかもしれない。
そしてこれから、超高齢社会を経験していく中で、希望とは何か(自分だけではなくそれぞれにとっての)、常に考え続けることが必要になってくると思う。


追記
この文章は、自分の内面を掘り下げたもので、他の方々に同じように考えるように、と促すものではないことを付記しておく。
また、「だから治療を受けるべきではない」と意図するものでもない。
例えば抗がん剤。こんな文章を書くと、医師は自分が癌になったときに抗がん剤を受けない、という論の裏付けになりそうだが、ばかげたことだ。
抗がん剤をする目的、それが自分の生きる希望と合致していれば、当然それを受けるし、ムダだと思えば受けない。例えば、いま、全身転移のがん、と診断されたら、抗がん剤を受けたいと思う。でも、20年後、30年後にどう思うかは、その時にならないとわからない。
この点については「治療をすることそのものが医療の主たる目的となりがちな」現在の状況に疑問を持っており「患者にとってもっとも利益があると思われることを、医療で支える」のが自分の中での医療のあり方と思っていることから、そう思うのである。

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