剥き出しの個人

先日、「現代の魔法使い」落合陽一さんの番組を見ているときに「日本が再興するためには、西洋的思想からの脱却が必要だ」という言葉があったんですね。
明治維新をきっかけに、新政府の樹立、そして欧化政策の推進によって日本に西洋思想がどっと入ってきて、さらに戦後にアメリカの思想が混じることで、日本が本来持っていた特性が失われてしまったということ。そのために、日本全体がぐちゃぐちゃになってしまっていると。
自立した個人ではなく、孤立した個人になっている。
だから、日本を再興するという時に、ヨーロッパやアメリカの何かを参考にしようという視点から、日本人にはそもそもどういう社会・思想構成が最も合っているのか、という考察を始めなければならない、と言っています。

これは、自著でも考察したことですが、日本人は少なくとも「神」を唯一絶対とし、それと対峙する自我としてのキリスト教的文化圏の価値観とは大きく異なる、先祖や自然とのつながりを重視した儒教・仏教・神道などが習合した形での宗教観を、儀礼としては失われていても、生活・観念レベルまで浸透させる形でもってきた民族といえます。
しかし、近年においては、西洋的な自由主義・個人主義の浸透や、旧来の「イエ」や「ムラ」制度の喪失から、生活習慣レベルで残っていた様々な宗教的営為までも徐々に失われつつある中で、現在の日本は、伝統的な「日本人」としてのメンタリティと、西洋的な自由主義個人主義的価値観が、社会的にも個人的にも混在している状態といえます。

そのため、「イエ」「ムラ」を基盤とした家族や地域間の紐帯にその思想的基盤を頼むわけにもいかず、宗教的基盤を持ち出すことも難しく、かといって西洋の価値観だけに寄ったような意思決定を行うことも一律にはできません。言うなれば、イエ・ムラや宗教といった「自分を守る鎧」としての枠組みが弱くなってしまった現代の日本人は、裸同然の「剥き出しの個人」として社会と対峙しなければならなくなりました。

これからの日本においては、宗教性の減退や家族の解体はよりその歩を進め、地縁としてのコミュニティとの繋がりも希薄となる社会へと向かっていく可能性はあります。もちろんそのようにならないことが理想ではありますが、少なくともこれまで日本人なら常識的に利用可能と考えていた前提としての「信仰」や「家族やコミュニティの繋がり」なども、その形が変容されているのではないかという視点で捉え直す必要はあると思います。

では、どういった社会を目指していくことが日本人に合っているのか。
少なくとも、家族や地縁としてのコミュニティ、会社など単一のものに縛られる封建的な時代に戻ることはないでしょう。なので、一人一人が多様なコミュニティに所属し、それぞれを流動的に渡り歩くような概念で生きることが東洋的であると落合さんは語っています(オープンなムラ)。
このように、流動的なコミュニティの中で、個々人がお互いを支え合いながら、そのコミュニティのために生きていくことで結果的に個人が恩恵を受けられるという考えであれば、「剥き出しの個人」から脱却できる未来の方策のひとつではないかと考えます。
私としてはとてもしっくりくるのですが、みなさんはいかがでしょうか?

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